月末にちょっと遅いお盆休みを3日間取り、南三陸へボランティアに行ってきました。
行きたいとも、行かねばとも違う、
この一年半ずっと抱いていた感情に背中を押されるままの強行日程です。
自宅を朝の9時に出発して、到着したのは夕方。
車で街を一回りしましたが、その状況は私の想像を遥かに超えるものでした。
破壊された堤防、躯体がむき出しのまま解体もされていない鉄骨ビル、
基礎だけを残して跡形もなく消えた街並みは草木が生え、
遠目には荒れ果てた野原のようでした。
「被害」そのものより、「復興」とはほど遠いその景色に言葉を失いました。
連日のようにメディアで流された震災関連のニュースや話題も無くなった今、
そこにはまるで日本中から置いて行かれたかのような寂しさがありました。
宿泊先では地元の方の集まりが開かれていました。
共に行った母が、お風呂でその内のお一人から声をかけられました。
「どちらからですか?」
被災地を見に来たという行為が地元の方にどう受け止められるか心配しながらも、
「神奈川からです。息子がボランティアに行くというのでついて来たのですが…」と母は答えました。
するとその方は、
「ありがとうございます。見に来てくれるだけでいいんですよ。この状況を知ってもらえるだけで」と
おっしゃったそうです。
忘れないでほしい。知ってほしい。
翌日私と息子は災害ボランティアセンターへ向かいました。
担当したのは瓦礫処理です。
住宅の基礎に入り込んだ土砂から大きな石や瓦などを分別し、土砂を取り除いていきます。
土砂の表面から数センチ下は黒い土の層でした。
燃えて変色したのだと気づくまで数分かかりました。
色々な物が出てきました。
食卓を行き交ったであろう茶碗やお皿、誰かの指を飾ってたであろう指輪、焼けて変色した10円玉…
1年半もの間、土砂の中でそのままだったのです。
一日が終わりボランティアセンターの方が参加者に挨拶をしました。
「皆さんにお願いがあります。帰ったらこの状況を友人や周りの人に話してください。
南三陸の復興は遅れており、この状況を知らない方が多くいらっしゃいます。どうかお願いします」
忘れないでほしい。知ってほしい。
私と息子がボランティアに行っている間、
母と妻と次男は気仙沼に行っていました。
鉄道はまだ完全に復旧しておらず、バスでの行程です。
思いのほか時間がかかり、現地でゆっくりする時間もなくタクシーを拾いました。
すると運転手さんは「お客さん、10分間時間ありますか?」と聞いたそうです。
復興が進まない気仙沼の状況を象徴する場所を見て欲しいからでした。
忘れないでほしい。知ってほしい。
当初、私は長男と二人で行く予定でした。
ボランティアを出来ない家族は連れて行かない方が良いと思ったからです。
でも、今回の件で色々と情報を教えて頂いた熊谷さん(後述)から、
「被災地の方々はとにかく見て欲しいと言ってる。この状況を知ってほしいって。
だから是非ご家族で来て」と言われて一緒に行くことにしました。
ボランティアに行くことも特に誰にも言わずにいるつもりでした。
ただ行ってするべきことをし、そのまま帰って元の日々に戻るつもりでした。
たった一日ボランティアに行っただけで何かを知ったようなことをいうのは憚られるし、
どういう言葉を使ってよいのかも分からなかったからです。
でも、最後にボランティアセンターの方が言った言葉を聞いて、
このブログにも書くことにしました。
それまで一枚も撮らなかった写真も、最終日の朝、再度街へ出て撮ってきました。
カーテン業界では、熊谷安利さんが中心となって行っている「南三陸ミシン工房」http://www.facebook.com/#!/mishinkoubouの
活動を支援しています。今回、私も熊谷さんの案内で仮設住宅に作られた工房に伺ってきました。
私自身、全然お力になれていない状況ですが、業界の皆々様の変わらぬご支援を宜しくお願い申し上げます。